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生きる

☆9/9と9/14に私と同じ歳の友達(女性)が、その少し前には2つ歳下(52歳)のハンガリーの空手仲間が向こうの世界に渡った。

1ヶ月以内に3人。その前には空手絡みの同世代の人間が複数、次々と亡くなって行った。

もう、そういう歳になっているので仕方がないのかもしれない。
私もその覚悟は常に出来ているが、まだまだ私には「役目」があるようで、どのサイキックの先生に観て貰っても長寿と言われる。長寿が良くて、短命がよくないと考えるのは、この世の感覚であり、その基準は間違っている。

寿命は奥底の自分自身の魂が生まれる前に大体決めており、更に人生を歩んでいる中で奥底の魂が「そろそろだな」と最終的な時(向こうへ帰る)を決めて、その亡くなり方を選ぶ。

ある人は病気、ある人は事故、ある人は突然死、またある人は自然死………などなど。

この絡みの理論というか法則は、幼少の頃から「観えない世界」を探究していた私は中学生くらいに確信していた。

以前も投稿したが、それを更に深い確信にしたのは私の父の死だった。
7年前に向こうへ帰った父は、その2年半前から「そろそろ向こうへ戻ろう」と奥底の魂が決めていたようだ。

それを裏付けるエピソードがある………私が25年以上前からお世話になっているサイキックの先生のところにお邪魔して話をしていた時に、全く関係ない話をしている最中、突然に先生が「柚井さんのお父さん、もうそろそろ帰りたがっていますね。直ぐではないですが、そんなに先でもありません。」と言い出した。
この先生は寿命は魂が決めることをわかっているので、クライアントさんに寿命のことを聞かれても絶対に鑑定しないし、答えません(しっかり人生のシステムをわかっているので)。

それが、私の父の寿命のことを言い出したのです。私は「そうなんだな」と心に刻んだ。

そして更に数日後、友人のWさん(現在クリスタル販売の手伝いをして貰っているサイキック能力者)と昼ご飯を食べて話をしている最中、これも全く別の話をしている時に「師範のお父さん、もうそろそろみたいよ」と言い出した^_^。
Wさんは当然T先生の話を知らない。

私は数日前にT先生から言われた同じ事をWさんにも言われたので、父の魂がハッキリ決めたのだなと理解し、母親、妹と弟にそれなりの覚悟をしておけよと連絡した。

結局、その後2年間が過ぎたが、母親が「お父さんが何もしないで上の方を向いて、ボーッとする時間が増えて長くなった」と言って来たので、いよいよだなと思っていた。父は「脳梗塞」を選んで倒れて入院し、3週間後に向こうへ渡った。

この一件で、寿命は奥底の魂が決める事を確信した。そうでなければT先生やWさんが同時にメッセージを受け取る訳がないからだ。

人生は人それぞれ、生き方も人それぞれ、周りが色々いうのは大きなお世話で、関わり過ぎるのはよくない。

という長い前提の上で、これから本題に入ります^_^。

よく、目に観えない世界を知り始めた方々は「自分らしく生きるために生まれて来た」と考える場合が多い。
これは「第一歩として」は正しい。
しかし、この「自分らしく生きる」ために生まれて来たと思える段階の方々は、本人は気付いていないが、自己中心的な生き方をしている方々が多い。本人は「自分らしく生きるのであって、自己中心的ではいけない」と思っているし、語っているが、そう思っている段階で既に自己中心的であることに気付いていない。

これは、大宇宙、大自然の源のエネルギー(通常は神と呼ばれる)が何故「この世」を創ったのかという理由に関わるので、その説明が短く出来ないので簡単にさせて頂くことが良いとは思えないが、誤解されることを恐れずに書いてみます^_^。
私たちが生まれて来た理由は「自分自身とは何なのか、どういう存在なのか」を確認するために生まれて来ています。

源の大いなるエネルギーの分け御霊である私たちは、その体験、経験を「無限の叡智」であるエネルギーと共有しているため、この「自分自身とは何なのか、どういう存在なのか」というテーマは、源の「無限の叡智」自身が知りたい大きな目的と同じであるのです。
「無限の叡智」は唯一絶対的な存在であるため、比べる対象がないので、自分自身が何なのかを自覚出来ないのです。
光があるから暗闇があるとわかる、他人がいるから自分自身だとわかる、高い場所があるから低い場所に気付くことと同じで比較対象があるから自分自身に気くのですが、比較対象がない「無限の叡智」は自分自身が何なのかわからないので、私たちのような、動植物、鉱物などに分け御霊のエネルギーを派遣して、別の対象を創り体験をすることで、自分自身を自覚しようとするのです。

ですので「自分らしく生きるため」のような「手段」ではなく、「自分らしく生きたいと願う、思うために生まれて来た」と言えると思います。
「自分らしく生きたいと願う、思う」というのは、「自分らしく生きる」って何だろう?、どういう生き方なんだろう?と思うことが、「自分自身ってなに?」という自分自身を見つめる、自分探し、自分自身の確認という、大いなる源のエネルギーの「この世を創った目的」に叶うからなのです。

自分自身だけを大切に、自分自身だけを考えるのではなく、周りの人たちの中で、周りの人たちとの関わりの中で、自分自身の存在を浮き彫りにさせる、自分自身の確認をするのです。

揺らがない自分自身をしっかり保ち、周りの人たちに流されないようにしながら、ガッチリ周りの人たちを気にして関わりを持って行く必要があります。

もちろん、今世では人と余り関わらないことで自分自身と向き合い、自分探しをする方々も当然いらっしゃるでしょう。

しかし、大半の方々は周りとの関わりなくして素晴らしい体験が出来ない状態にいるのです。

「自分らしく生きるために生まれて来た」と「自分らしく生きたいと願うために生まれて来た」の違いに今世で気付くことが必要な方々が多いはずです。

この投稿はそんな方々へのメッセージになると思います。

私自身は理論的にそれを知っているだけで、まだまだそのレベルではない若輩ものです。

ただ、周りの人たちが亡くなると、自分自身の人生を充実させなければと思う余り、自己中心的になりがちな部分があります。

「自分らしく生きよう」そう思うことは本当に素晴らしい。しかし、そこに潜んでいる自己中心的な部分に気をつける必要があるでしょう。

私自身が目指している段階で出来てもいないのに偉そうなことを言うなとお叱りを受けそうですが、同世代の人たちの死が6〜7人も似たような時期に重なり、投稿してみようと思い立った事ですので、この投稿が必要な方々が多いはず。

優れているいない、良い悪いではなく、気が付いた方々だけが受け取ればいい話ですので、読み流して下さって全く構いませんし、Facebook上でのご質問などにもお答え出来ません。

少しの方々でも、生きる上での何かになって頂けたら嬉しいです^_^。

長い投稿にお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました^_^。

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